12月24日に放送された「TVタックル(テレビ朝日系)」で、安楽死に関するテーマを取り扱っていました。
安楽死に関する本も出している、脚本家の橋田壽賀子氏をゲストに迎え、様々な意見が交わされていました。
番組の中で橋田氏が印象的なことを言っていました。
「歳をとってみないと、この気持ちはわからない」
実はこれと同じことを父に言われた事があります。
以前このブログでも書いたことがありますが、私は安楽死には賛成している立場です。
「老後」や「長寿社会・少子高齢社会」は、文明の発展が生み出したある種の歪み、しわ寄せです。皆んなこのしわ寄せに将来を不安に思い、高齢になると苦しむのです。
臓器移植、ペースメーカー、入れ歯、胃ろう、人工骨頭、抗生剤など、ありとあらゆる治療は「より快適に、より命長く、より苦痛なく」という人間の欲望を満たすために行われています。
歳を取ったら、寿命をどのように迎えるかについても人間らしく「より楽に」逝ける選択肢があっても良いのではないでしょうか。
安楽死について考える時、考えなくてはいけないのが「人はなぜ生きていられるのか(精神面)」という哲学的なことです…
[目次]
「生老病死」の考え
生まれてきた事、老いる事、病気になる事、死ぬ事、この世の免れることの出来ない4つの苦悩を言い表した、仏教の言葉です。
生きることは実は苦しいことなのです。生きるためには生きる意味、活力、モチベーションとなるものが必要です。
人は皆生きる意味を持っている
人が生きていられるモチベーションになるものは以下の2つです。自覚のあるなしに関わらず、実はほぼ全ての人がこれをモチベーションにしています。
① 未来はもっと楽しいことがあるかもしれない
要は未来への期待です。
今が充実している人も、していない人も、心身さえ健康であれば明日はもっと楽しく、もっと豊かになれるかもしれません。
より明るい未来への期待が生きるモチベーションになっています。
② 誰かの役に立っている
仕事や子育てなど、社会で活動をしていれば必ず誰かに必要とされ、役に立っています。
良く言うと「自己実現」、悪く言うと「やらなくてはいけない事がある」と言う事です。
歳をとるとどうなるか
上述した生きるためのモチベーション、歳をとるとこの2つは失われます。
身体が思うように動けない、自分でトイレも食事も意思表示もできない、家族の顔もわからない。
仕事もない、誰かに必要とされることもない、やらなければいけないこともない。
金銭的にも肉体的にも、人の世話にならないと生きていけない。
誰かの役に立つ?未来はもっと明るい?
そのようなことは望むべくもない状態まで衰えてしまう事があります。
このような状態になった時の絶望感は計り知れません。一体何をモチベーションにして生きていろと言うのでしょうか。
こうなってまで生きろと言うのは、出来るだけ長く苦しみなさいと言う事でしょうか。
老人ホームや病院に出入りしていると、ホント切実な現実を目の当たりにします。
「自分が自分であるうちに死にたい」
認知症が進行すると、これまで積み重ねてきた人格やパーソナリティが崩壊します。
「自分が自分である」ことを認識するためには、物事を相対的に見る必要があります。
自分がどのような人生を歩んできたのかと言う時間の積み重ね、家族や友人、仕事のこと、場所、自制や理性など、自らを形作る様々な外的要因を地図のようにすることで、自分が自分であることを認識しています。
認知症が重度化するとこれが段々と出来なくなり、言い方は悪いですが「赤ちゃん的」「植物的」になっていきます。
ちなみに、認知症になっても感情は残ります。
嬉しい、楽しい、怖い、悲しい、痛い、痒いなど…
だから私たち介護士は、少しでも笑顔多い毎日を送って頂きたいと懸命にケアに臨んでいます。
しかし、これは本当に本人が望んでいた老後の姿なのか。否です。
そのような状態になってしまったから、そのような状態から逃れる術がないから、そうするしかないのです。
自分が自分であるうちに死にたいと言うのは、おそらく誰もが望んでいる真っ当な考えなのではないでしょうか。
さいごに
テレビでも解説がありましたが、安楽死にはいわゆる「積極的安楽死」と「消極的安楽死(自然死、尊厳死)」があります。
こちらの解説がわかりやすいです。外部リンク▼
いま日本の制度下で出来ることは、消極的安楽死のみです。私は自分が自分であるうちに死ねるために、積極的安楽死にも賛成しています。
今回はここまで!
このブログをご覧になった皆さんはどのように考えますか?