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75歳以上のすべての人に、安楽死できる権利を認めてはどうか

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104歳のオーストラリア人科学者が、先日安楽死を遂げたというニュースがありました。※上の写真は関係ありません。

 【シドニー共同】安楽死を希望していた104歳のオーストラリア人科学者が11日までに、渡航先のスイスで致死量の薬物を注射し死亡した。最後の食事に好物のフィッシュ&チップスとチーズケーキを取り、ベートーベンの「歓喜の歌」が流れる中、家族に見守られながら最期を迎えたという。AP通信などが伝えた。

 オーストラリア西部パースにあるエディス・コワン大の研究者デービッド・グドール氏は、重大な病気を患っていたわけではなかったが、近年、運動能力や視力の低下から生活の質が下がり、人生を楽しめなくなったと感じ、自死を望むようになったという。
豪の104歳科学者が安楽死 「歓喜の歌」聴き薬物注射 - 共同通信

このブログでも、これまで安楽死は必要ではないかという主張を繰り返し述べてきましたが、今回のニュースを受けて、改めて考えてみたいと思います。

 [目次]

 




1 . 世界の安楽死事情

現在、医師による自殺幇助が認められているところはオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、カナダ、アメリカのモンタナ州、ワシントン州、バーモント州、ニューメキシコ州、カリフォルニア州。また、スイスにもディグニタスという自殺幇助を行う団体があります。
※国によって方法(投薬による積極的安楽死、延命治療中止による消極的安楽死)や条件には違いがあります。

実際に安楽死をした人の事例は時折ニュースにもなっています。

2008年、事故により四肢麻痺になり人生に絶望し、スイスで自死した23歳の青年の事例▼

かつて英国アンダー16・ラグビーチームのメンバーにも抜てきされたダニエルさんは昨年3月、プレー中に崩れたスクラムの下敷きになり脊椎を損傷、首から下が不随となった。

英国中部ウースターに住む両親マーク・ジェームズさんとジュリーさんは書簡で、息子はこの重度の身体的障害を受け入れることができず、動かなくなった身体を「牢獄」だと考え、くり返し死にたいと話していたと述べた。

両親によると、息子ダニエルさんは「健全な精神を持った知性のある青年だった」とし、「彼は、自分が二流と感じる生き方を歩む準備はできていなかった」という。ダニエルさんはまた、「念願をかなえる前に」数回自殺を試みていたという。

幇助自殺を選んだ元ラグビー選手、両親は息子の心境を擁護 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News



2012年、聴覚障害を持った双子の兄弟(45歳)の事例▼

[ブリュッセル 14日 ロイター] 聴力と視力を失ったベルギーの双子の兄弟が、同国で合法化されている安楽死によって死去していたことが分かった。ブリュッセルの病院担当者が14日、明らかにした。

2人はいずれも45歳で、生まれつき聴覚に障害を持ち、後に視力を失った。互いの声も聞けず、顔も見られないことが耐え難いとして安楽死を選択。2人はコーヒーを飲み交わした後、互いに別れを告げ、薬物注射によって死去した。

ベルギーの45歳双子兄弟、視聴覚障害に苦しみ安楽死選ぶ | ロイター



2 . 様々な論点

前述した安楽死が認められている国々と、そこで命を絶った人たち。

これらの国々で、安楽死が必ずしも全て「懇意的に」「問題なく」運用されているかと言うとそんな事もなく、それなりに物議を醸しています。


ダニエル青年の例ですが、ここで言われている「二流と感じる生き方」という言葉と、その後の安楽死という選択。

これを安易に認めてしまっては、相模原の障害者施設であった殺傷事件のように、「価値のない生」や「命の選別」という差別意識を助長してしまうのではないか。また、「どのような状態になった人でも社会で支える視点」が徐々に欠落していくのではないか。こう懸念する声もあります。


聴覚障害を持った双子の例でも、ベルギーでは安楽死を希望する患者は『成人で判断能力がある人物でなければならないほか、持続的で耐え難い精神的・肉体的苦痛を感じていなければならない 』という制限があるのですが、終末期でもない、痛みも伴わない二人の場合には、『堪え難い精神的、肉体的苦痛』をどこまで拡大して解釈するのか?と国内で物議を醸したそうです。


また、安楽死が認められているある州では、医師が治療を考えず、早々にモルヒネを用いて緩和ケアを行う例もあるそうです。安楽死が認められている事によって、前向きな治療やケアに対するモチベーションの妨げになってしまっているのではないかというのです。

・・・。

安楽死の是非を考える時、必ず議論に上がるのがこの「価値のない生」を社会が容認するような仕組みにしてしまって本当に良いのだろうか?…という話です。

確かに悩ましい問題です。

しかし、綺麗事抜きで自分がその立場だったらと考えたら、おそらく私も同じ選択をしたのではないか、本人の苦しみに対し周りの倫理観は綺麗事でしかなく、余計なお世話なのではないか、とも思うのです。

「『キレイな社会』のために、不運にも死にたいほどの苦しみにあっている人はそれに耐え忍びなさい。」そう言われているような傲慢ささえ感じてしまいます。当事者にとってみたら、そこで押し付けられるキレイな倫理感は暴力でしかないのではないでしょうか。



3 . 安楽死が認められる条件

多くの場合「持続的で耐え難い精神的・肉体的苦痛がある場合」や「治療による回復が見込めない終末期の場合」などが安楽死が認められる条件となっています。

それらはいずれも「良き生への諦め」であり、「生きている限り逃れることのできない苦痛からの解放」でもあります。

治療だけでなく、苦痛からの解放(それが死という手段であっても)についても医療が関わる必要性。

この観点、古くは森鴎外(1862〜1922)の小説「高瀬舟」、フランシス・ベーコン(1561〜1626)の「学問の進歩」、思想家トマス・モア(1478〜1535)の「ユートピア」などでも言及されています。

「高瀬舟」ストーリー
回復の見込めない重病を患った弟が、兄に迷惑をかけまいと、カミソリを喉に突き立て自殺を図るも、刃が抜けないために死に切れず苦しんでいた。そこに兄が帰宅、弟は兄に刃を抜き楽にしてくれるよう頼む。兄は葛藤した後、弟の願いを叶えて死に至らしめる。

「学問の進歩」より引用
わたくしは、ただ健康を回復させるだけでなく、痛みと苦しみを軽くすることも医師の職務であると考える。そして、そのような軽減は回復の助けとなるだけでなく、きれいで安楽な死に方をさせる場合にも役立つのである。

「ユートピア」より引用
もし病気が永久に不治であるばかりでなく、絶え間のない猛烈な苦しみを伴うものであれば 〜中略〜 生きている事自体がひとつの拷問ではないのか。もしそうなら、死ぬということに躊躇することなく、いやむしろ前途に明るい希望をもって、ひと思いに自らの命を絶って業苦の人生を脱するか、それとも他人にその労をとってもらって脱してゆくか、とすすめるのである。

 

 

4 . 一定の年齢以上全ての人に安楽死を選択できる「権利」を

これまで述べてきた安楽死に関する論点は「全世代の人たち、不運にも病気や事故などで取り除きようのない苦痛を抱えてしまった人たち」を対象としています。

例えば、生まれながらにして重度の障害を抱えてしまった人、事故や病気によって重度の障害を抱えてしまった人。

この人たちに対して、どのような社会であることが理想的なのか。どのような法整備が必要なのか。私はまだ「これ!」と断言できるような答えを持ち合わせていません。


しかし、高齢者に関して言えば、全員に対して安楽死できる権利を与えること。そのための法整備や医療、福祉の体制を整えること。これが私からの提案です。

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人生100年時代と言われ、老後の不安も生き地獄も長くなってしまった現代社会。健康寿命と寿命のギャップによる苦しみや不安は、高度に文明が発達した現代社会の歪みの一つです。

以前のブログでも書きましたが、人が生きるモチベーションを得られるのは「未来への期待」と「誰かから必要とされている」のいずれかがある時です▼

人はなぜ生きていられるのか【安楽死の是非について】【死生観の授業10】 - Sow The Seeds


これが失われた時、文字通りそれは「生き地獄」となります。

高齢期においてはこの生き地獄に陥るリスクがとても高いわけですが、現状そこから逃れる方法はありません。一生懸命に生きてきて、人生の最後が苦しみに満ちた罰ゲームではあんまりではないですか。

全ての人に訪れるであろう老後の苦しみや不安から解放される術。自分が誇り高き自分であるうちに逝ける術。

これを高齢者には認めても良いのではないでしょうか(もちろん、安楽死を選択しないのも自由)。

「命の選別」ではなく、「全ての人に与えられた個々人の自由」として。

※ここではあくまで例えとして、後期高齢者である「75歳以上の人に」と言っていますが、「何歳からこの権利を認めるのが適切か」という点については別途議論が必要だと思います。


冒頭で紹介したニュースのような事があるたびに、日本においても「生老病死」から目を背けず議論が前進することを期待します。

つづく…




参考書籍▼

死の自己決定権のゆくえ: 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植

死の自己決定権のゆくえ: 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植

 
医療倫理の扉―生と死をめぐって

医療倫理の扉―生と死をめぐって