こんにちは、yuです。
介護の世界ではよく「当たり前の生活」という言葉が使われます。
「当たり前の生活を取り戻す」「当たり前の生活をさせてあげたい」などなど。
どういう時にこの言葉を使うのかというと、例えば私であれば
- 朝起きたらまずトイレに行って用を足したい、シャワーを浴びたい
- もよおしてきたら歩いてトイレに行く
- 毎日風呂に入りたい
- 風呂やトイレの時は誰にも見られたくない
- 一日一回は外の空気を吸いたい
- たまにガッツリ焼肉が食べたい
- 基本一人でいる時間が好き
- 天気が良いと外に出たくなる
- たまに大切な人と旅行に行きたい
当たり前の生活と言われると、こんな他愛もない事が思い浮かびます。
しかし、年老いて介護が必要な状況になり老人ホームに入ったりすると、このような当たり前だと思っていた事が叶わなくなります。
パッドに尿を出すのが普通になる、他人に下の世話をされる、風呂には週2回しか入れない、咀嚼嚥下の力が弱り細かく刻んだ不味そうな食事を出される、外出する機会がなくなる…
このようなお年寄りの状況を理解し、少しでも緩和し、尊厳ある生活ができるように支えよう!ということを端的に伝えるために「当たり前の生活」という言葉を使います。
言ってることは正しいです。理解できます。
ですが、ひねくれ者の私はこの言葉がどうしても苦手です。なぜかと言うと…
[目次]
1 . 人間一人が生きるために必要なコスト
少し個人的な話、私が社会に出たばかりの頃の話をさせて下さい。
私は17歳の時に高校を中退し実家を出て、働きながら一人暮らしをはじめました。
当時は、工事現場の仕事や八百屋の仕事など日給や時給の仕事を転々としていまして、いわゆるフリーターというやつでした。
当時の私は大変だらしがなく、世の社会人がやっているような「毎日働く」「働きながら家の事もやる」事さえも中々すぐには出来ませんでした。
なので使えるお金もどんどん少なくなり、とても文化的な安定した生活と言えるような状態ではなくなり、徐々に生活は破綻していきました。
子供の頃少しバカにさえしていた、サラリーマンが毎日満員電車に揺られて出社する光景、それさえも私はまともに出来ない、その程度の情けない人間だったのだと痛感しました。
この時に思い知った事。
それは「人間一人が普通に生きていくだけでも、これだけ多くの労力とお金が必要なのだ」と言うことです。
※その後、縁があって介護の仕事に出会うわけですが、介護の仕事を始めるにあたって最初の目標は「真面目に毎日働くこと。嫌なことがあっても働き続けること」でした。生きるために。
老人ホームでの生活
「人間一人が普通に生きていくだけでも、多くの労力とお金が必要」
これが私の社会人生活における原体験であり、私にとっての「当たり前の生活」です。
では老人ホームはどうなっているか考えてみます。
◆ 食事
管理栄養士が栄養バランスを考えた食事が、毎日三食、上げ膳据え膳で提供されます。食事の準備も、食後の洗い物も、誰かがいつの間にかやっておいてくれます。
◆ 入浴
週に2回だけではありますが入れます。体が動かなくなっても、介護士さんが全て手伝ってくれます。湯船にも入れます。
◆ 掃除、洗濯
誰かが勝手にやってくれます。自分は何一つ心配する必要がありません。シーツは毎週交換してくれます。
◆ 健康管理
定期的に内科医が診察に来てくれます。処方された薬は飲み忘れなどないように、看護師、介護士が管理してくれます。定期的に体重測定や健康診断も行います。
◆ 見守り
24時間誰かが見守りをしてくれます。体調が悪くなればすぐに発見され、病院への受診も付き添ってくれます。
◆労働
する必要ないです。分かっています、出来ないから老人ホームに入っているのです。一日中テレビを観ても、寝ていても、自由です。
◆ お金
これらの生活がなんと月10万円ほどで可能です(多床室特養の場合)。年金、介護報酬、医療報酬、これらのお金は政治家がなんとかしてくれるので心配いりません。収入や貯金がなくても、生活保護を受ければ同じ生活が出来るので大丈夫です。
私の「当たり前の生活」から考えると、これはまるで奇跡、魔法、夢の国のようです。全然当たり前じゃないです。人一人が生きていくにあたって、老人ホームはかなり恵まれているというのが実際のところなのです。
高齢者の保護や社会保障そのものを否定するつもりはありません。動物はエサが取れなくなったら死ぬ=人間は働かざるもの食うべからず、それが極端になってしまっては人間的・文化的な社会ではなくなってしまいますから。
ただ「お年寄り=可哀想な人」と言う視点ばかりで見ていると、それは徐々に過保護になり、偏った社会保障に陥るリスクもあります。
また、こういった状況を考えると、サービスを利用する側にもそれなりに謙虚な姿勢が求められますし、決して現状を当然の権利だと思ってはいけません。
2 . 老いを否定していないか
もう一つ、「当たり前の生活」という言葉に違和感を感じているのは、生老病死という生命の営みからの観点です。
生老病死とは、お釈迦様が言ったとされる、この世の4つの苦しみを表す仏語です。これをまとめて『四苦』と言います。
- 生:生きることの苦しみ
- 老:老いることの苦しみ
- 病:病になることの苦しみ
- 死:死ぬことの苦しみ
この四苦は、生命の営みとしても非常に的を射た言葉として受け止めることが出来ます。
肉体は、生まれた時から成人ごろまで成長し、そこから徐々に衰え、最後は死に向かいます。
ここで思い出していただきたいのですが、冒頭で紹介した介護における「当たり前の生活」、これは基本的にはお年寄りの若かった頃を基準に考えられています。
赤ちゃんの離乳食が私たち大人にとって当たり前の食事では無いように、ライフステージによって最適な形は違います。
お年寄りに対して、歩く・形あるものを食べる・外出するなど、これらを若い頃基準で考えるのは、けっこう無理がある場合があるのです。
今にも落ちそうな枯れた葉に沢山水や肥料をやっても新芽には戻らないように、歳をとったらとったなりの生活を考えていかなくてはなりません。
若かった頃を基準にした「当たり前の生活」は、ケアをする側も暴走すると極端なリハビリ思考や、採算度外視した過剰なサービス提供にもなりかねません。
しかもそれがかえってお年寄りを苦しめてしまう事さえあり得るという…
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組織の方向性や人材育成において、分かりやすい標語を用いるのは一つの手法ですが、この「当たり前の生活」は私にとっては老いを否定している感じがして、どうも納得がいかない。
「当たり前の生活」と言うよりは、「苦痛の緩和」であったり「笑顔多い生活」の方がしっくりくるような気がします。
3 . ノーマライゼーションの捉え方の問題
社会福祉の源流には、ノーマライゼーションという考え方があります。*1
これは「障害を持つ人であっても、健常者同様ノーマルな生活が送れるような環境や社会を目指そう」という趣旨のものです。
例えば、バリヤフリーの建物や道路に施された点字ブロックなどは、障害がある人でも安心して自らの力で外出をすることができるための工夫として、ノーマライゼーションの考えにかなった社会環境と言えます。
ノーマライゼーションは、元々知的障害や身体障害を持った子供を対象として生まれた言葉でしたが、それが高齢者福祉にも広がりを見せ、応用されています。
しかし、このノーマライゼーションは哲学的な考えでもあるため、「これはノーマライゼーション。これはノーマライゼーションじゃない。」など一つ一つ全ての事象に対して明確な基準があるわけではありません。
高齢による心身の変化を「ライフステージの変化だから自然の事」と捉えるか、「若い頃してた事が出来なくなった=障害である」と捉えるかによって、介護のあり方も変わってしまうのです。
何度も言うようですが、例えば赤ちゃんに対して「離乳食を食べさすのは、私たち大人にとってノーマルじゃない」からと否定する人はいないでしょう。
お年寄りにもお年寄りなりのノーマルがあるのではないか、若い頃のことが出来なくなる=障害=可哀想というのは違うのではないか、というのが私の考えです。
4 . さいごに
そんなわけで「当たり前の生活」という言葉が苦手…個人的な思いを吐露させていただきました。
話は変わりますが、私は人材育成においても「何でこんな当たり前のことが出来ないんだ!怒」とは言わないよう心がけています。
個々人の考え方、性別、年代によっても当たり前の形は違いますし、それを教えたりすり合わせたりするのも上司の役割だと思うからです。
対利用者であれ対職員であれ、きっと私は「当たり前」という言葉が嫌いなのですね。この言葉をなるべく使わずに仕事をするのが、密かなこだわりだったりします。
長文お付き合い頂きありがとうございました、それではまた!