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介護の現場から リーダーのためのブログ

読書感想【安楽死を遂げるまで】

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こんにちはyuです。

前回に引き続き、こちらの本の紹介です▼

安楽死を遂げるまで

安楽死を遂げるまで

 

著者プロフィール

スペインとフランスを拠点に世界各国で取材するジャーナリスト。海外の事件や社会問題から、政治、経済、スポーツ、医療まで幅広く活動する。6言語を操る。 最新刊に『安楽死を遂げるまで』

引用元:宮下洋一 YoichiMiyashita (@MiyashitaYoichi) | Twitter

 

前回の記事では、こちらの本で紹介されている、世界の安楽死事情について、各国の安楽死法や死にいたるまでの手段の違いなどについて解説しました。

今回は、著者が取材した実際に安楽死を遂げた人々やその家族のインタビューを紹介し、死生観や安楽死の是非などについて、私の所感を交えながら考えていきたいと思います。

 

[目次]

 

 

イギリス人女性(享年81歳)の事例から

人はなぜ生きていられるか

この女性は癌を患っており、自らスイスの自殺幇助団体を訪れ、安楽死を遂げることを選びました。

人生の終盤をどのように過ごすのか、この女性は以下のように考えています。

「今から2年前、腫瘍が見つかる前に肺炎で入院したことがきっかけでした。(中略)気がつけばお金も洋服もないまま、病院に一人取り残されていました。この時から、私を老人ホームに送り込む準備が始まったんです。老人ホームは、私の居場所ではありません。他人に体を洗われたり、食事を与えられたりするのは我慢できない。この時はひたすら拒絶しましたが、次に同じことが起きたら私は施設に入れられてしまうでしょう。」

医師「老人ホーム対する悪いイメージがありますか?」

女性「何度か訪問したことがあります。毎日、薬を与えられる生活で、そこまでして生かされることが人間の生き方なのでしょうか。私は、そうは思わないのです。」


よく介護の仕事をしていると「こんな施設には入りたくない」という職員の声を聞くことがあります。しかし本当は違うのです。ほとんどの人は、老人ホームそのものに入りたくないのです。自らが入りたい施設なんて、見つからないと思った方がいい。

今の日本では、他に手段がないから老人ホームに入らざるを得ない人が多くいます。この女性のように、自らの最後の過ごし方、死に方を決められるのはとても幸福なことなのだと私は思います。


「私が満足のいく人生を送ってこなかったら、もう少し長生きしようと思うかもしれない」

「これからは、頂点に達した人生が衰退に向かうだけです。せっかく良き人生だったものが、体の衰弱によって失われてしまう。それだけは避けたいの」

「これから先、私は苦しんで生きるだけ。幸福なまま逝かせて欲しいの」


満足いく人生だったからこそ長生きしようと思わない・・・
医師曰く、これまで自殺幇助を手がけた患者たちの多くが同様のフレーズを口にしたと言います。

実は、過去に自殺未遂をしたことのある私の父もこれと同じようなセリフをよく言います。


「60年も生きれば、人生の喜怒哀楽のだいたいは理解できるものだ。年老いてもなお『まだ何か良いことあるんじゃないか』と物欲しそうな目をした年寄りばかりだ。みっともない。俺は一生懸命に生きてきて自分の一生に満足している、だから早く死にたいんだ。」

 

過去の記事にも書きましたが、人はなぜ生きていられるのか、人が生きようというモチベーションの一つに「未来への期待」が挙げられます。

今日より明日、今より未来はもう少し楽しいかもしれない、幸せかもしれないという期待。

今までが人生の絶頂、これからは苦痛を伴う右肩下がりが待っているだけ。そのような状態になったときの絶望は計り知れませんし、それでもなお生きなくてはいけないというのは一種の拷問ではないかとも思います。


女性「ええ、私の人生は最高でした。望み通りの人生を過ごしてきたわ。思い通りに生きられなくなったら、その時が私にとっての節目だって考えてきましたから。」

医師「私はあなたの点滴に針を入れ、ストッパーのロールを手首につけました。あなたがそのロールを開くことで、何が起こるか分かっていますか。」

女性「はい、私は死ぬのです」

(中略)

そして20秒が経過した時、老婦の口が半開きになり、枕にのせられていた頭部がコクリと垂れた。まるで、テレビの前でうたた寝を始めたかのようだった。


こうして2016年1月28日9:26、女性は自殺幇助によって、著者も見ている前で息を引き取ります。



オランダ人男性(享年79)の事例から

個人の意思の尊重

この男性は、2013年、自宅にて家族25人に囲まれて安楽死を遂げました。

彼は死の11ヶ月前に認知症と診断され、「自分の人生は全て自分で決める」という固い意志のもと安楽死という選択を選びました。

著者は2016年に男性家族に対してインタビューを行っています。


このエピソードでは、個人の意思の尊重という点で私は大変感銘を受けました。

男性の息子の、幼少期のエピソードです

「少年時代、父にカトリックの学校に通いたいとせがんだことがあるんです。すると、10歳でカトリックから離れ、無心論者になった父は『ダメだ、俺は反対だ。だが、お前が本当に望むのであれば、私に反対する権利はない』と言いました。人間にはそれぞれ、個人の生き方がある。だから、父の(安楽死の)決定に、私が口を出せるはずがありませんでした」


安楽死当日の朝、彼は家の周りを15分ほど散歩し安楽死に臨みます

家に戻るとシープは叫んだ

「準備万端だ!」

中では、25人の家族が手作りのフルーツケーキや、大好物のプチシュークリームを用意して、彼の散歩の帰りを待っていた。

〜孫娘が座っていた。彼女にとって、この死は受け入れがたいものだった。信仰は違っても、同じように涙を流し、祖父に呟いた。

「おじいちゃん、なんで死んじゃうの?こんな死に方には反対だけど、おじいちゃんが決めたんだから仕方ない。嫌だけど、おじいちゃんの意思を尊重するね。」

シープは、周りを囲む家族全員に語るように、ゆっくりと口を開いた。

「いいかい、人間はみんな個人の生き方があるんだ。死ぬ権利だってある。誰一人として、人間の生き方を他人が強要することなんてできないんだ。それだけは理解してくれ。」


この後、男性は自ら致死薬の入ったコップを飲み干し、安楽死を遂げます。そばで妻が歌う、二人が出会った頃の思い出の曲、シナトラの『楽しかったあの頃』を聞きながら。

男性にはよく口ずさんでいた格言があったと言います。

I am the master of my fate : I am the captain of my soul.
(私が我が運命の支配者、私が我が魂の指揮官なのだ)
ウィリアム・アーネスト・ヘンリー(19世紀イギリスの詩人、1849~1903)




日本の文化と安楽死の是非について

事例についてはキリがなくなるので、今回は前述した2例だけにさせて頂きます
(本当はもっと紹介したい事例が沢山あるのですが…本買って下さい)。

最後に、日本の文化と安楽死の是非について、著者の感想と、それに対する私の意見を述べて締めくくろうと思います。

私は、「安楽死は、ある人にとっては唯一の救いの手段である」と考えています。

なぜそう思うのかと言うと、私自身が介護の現場で多くの方の老後や終末期を目撃し、自分自身がそのような最期を送りたくないと強く思うから。紹介した2例の方々の意見には共感せざるを得ません。

そしてその経験こそが、老いの経過を見ていない著者と私の違いであり、後述しますが安楽死に対する考え方も決定的に違うものになっています。


自ら選んだ死ではない可能性、だから安楽死は認められないと言う論調

医療の進歩が目覚ましい中、寿命を伸ばすことよりも、死ぬ自由に関心を寄せる日本人が少なからずいるというのは、驚きだった。

だが、そこには、前述の「迷惑の文化」が根ざしているように私は思った。何らかの理由で病を患った人間が自らの看病や介護を周囲の人間にさせたくない、人の助けを借りなければ生活できない自らを恥だと思う心理である。

家族からの「そろそろ逝ってほしい」という空気を、患者本人が察して、安楽死を願い出るケースもあるだろう。押しつけの死は、そもそも「死の自己決定権」を求めて議論されてきた安楽死の概念とは対極にある。

一般社団法人ケアラー連盟代表理事の児玉真美は「人間の不確かさ」を説く。彼女自身、心身共に障害を抱える娘を持つ。

「気持ちはその時その時で揺れ動くもの。ブリタニーさん*1に関する一連の報道を見て、あれは彼女がそうせざるを得ない状況に皆が追い詰めちゃったのではないか、と思いました。

中略

辞めたかったら、辞めるのも本当の強さです。自分の強さを証明するために死ぬ必要はないのですから」

これらの意見の言わんとしていることは理解できます。

人に気を使って、本当は望まない死を選ぶ人が出てきてしまうリスク、だから安楽死の合法化は難しいという論調です。

私はこの論調には反対です。

リスクは確かにあるでしょう。しかしだからと言って、いま苦しみあえいでいる人の思いや権利は、無視されても良いことにはならないはずです。

「望まない死を選ぶ人が出てしまうリスクがあります、だから今苦しんでる人は引き続き苦しんで下さい」とでも言うのでしょうか。


それからもう一つ。

人の世話になりたくない、人の世話になったら恥、だから死にたいと言う思い。これも、広義的には自己選択・自己決定・自己責任の範疇です。

自らの生理的欲求のためだけに生きているのが人間ではありません。誰かのために人生を考え、生き方を選ぶことだってあるでしょうし、それだって立派な自己決定なのです。上のような論調はある意味、人の意思そのものを軽んじた発言だとすら私には感じてしまいます。

もちろん、その時の揺らぎによって選択を変える余地や配慮は必要だとは思いますが、やはりこれも今苦痛にあえぐ人を放置する理由にはならないのです。


今後の日本における安楽死合法化の可能性

生命倫理学を専門とし、安楽死には反対の立場をとる鳥取大学医学部准教授・安藤泰至は、そもそも日本には安楽死合法化について議論できる土壌すら整っていない、と語った。

「安楽死は『死は自分の私的な事柄なのだから自分で決めるべきだ』という思想に支えられていますが、日本では自らの生き方すら自分で決められていません」

ここで安藤が例示したのは、会社員が法的権利の有給休暇もとらず、過労死してまで会社に奉仕する現状だった。あらゆる局面で日本人は、権利を主張しようとしない。

「また、医師が患者に癌告知をしたとします。『あなたはステージ4です』と告げた際に、患者が泣き崩れたらどう対応するのか、憔悴した家族とどう関わるか。

中略

生きる上で医療がどんな助けを患者に施せるかも確立されていないのに、死ぬ時だけ自己決定が大切というのは、話が逆ではないでしょうか

この国は、死を巡る対話を欠いてきた。患者への癌告知されるようになったのさえ、そう昔のことではない。スイスを訪れる各国の患者たちが、必ずしも末期癌患者のように死期が差し迫っていないのも、日々、死を現実に捉えて生活しているからだろう。

 

日本では、安楽死の合法化について議論できる土壌すら整っていない、その土壌なくして議論はない、という論調です。

ですが、ここで挙げられた言葉は私は暴論であるとさえ考えます。

生き方すら自己決定できない日本人である、だから死に方を自己決定なんて10年早いわと?(何度も言いますが)今苦しんでいる人もちゃんとした自己決定なんて出来るわけないんだから我慢しなさいとでも言うのでしょうか

これらの論調は、実際に苦しんでいる人たちへの視点が欠けていると思います。


それからもう一つ、議論できる土壌について。

日本人が死を巡る対話を欠いてきたのは事実だと思います。しかし、議論の俎上に乗せなかったら、いつまでたっても土壌は出来ませんよ。

「土壌が整ってないから議論出来ない」ではありません、「議論しないから土壌が整わない」のです。


また、著者は安楽死が合法化された場合の「滑り坂理論」にも懸念を示します。

もし、日本でも法整備された場合、私が恐れるのは、「滑り坂理論」の現象が起こりうることだ。これは安楽死に限ったことではないが、ある制度を合法化した途端、常習化が進み、当初、掲げた理想が予期せぬ方向に行くことを指す。安楽死が合法化されることで、患者の生の可能性を投げやりにする医師や、法を乱用し、死因を正確に報告しない医師がわずかながらも出てくるかもしれない。


こうしたリスクに備えること、エスカレートしないよう策を講じることはとても大切です。

しかし、老人介護の現場に携わる私からしたら、いまの日本は過度な延命という方向に随分と「滑り坂」して偏ってしまっているではないか、と思うのです。

いまの日本が正常でバランスとの取れた状態とはとても思えません。


個人主義、集団主義

著者は本の後半で、しばしば「欧米の個人主義」「日本の集団主義」を対比しながら考察を綴っています。

そしてその考察ですが、私には「長年海外生活を送っていた著者の、日本への美化・ノスタルジー」のように感じてしまいます。

昨今普及しつつあるリビング・ウィルは一つの方法かもしれない。ただし、日本の場合個人の意志に加え、家族や友人を含めた集団の理解が必要となってくることを繰り返し強調したい。そこには、悲しみやつらささえも分かち合う国民性が見てとれる。

突っ走った23年間、世界中の人々と交流し、やや乱暴であろうとも、後ろを振り向かない人生を送ってきた。明日死のうとも、自己責任である。誰にも振り回されず、自分の最期は自分で決める。その代わり、周りもその生き方を尊重してくれるはず。そう思ってきた。だが、日本取材を経て、欧米で築き上げてきた人生観に今、揺らぎを覚えている。

集団に執着する日本には、日常の息苦しさはあるが、一方で温もりがある。

生かされて、生きる。そう、私は一人ではなかった。周りの支えがあって生かされている。だから生き抜きたいのだ。長年、見つけられなかった「何か」が、私の心に宿り始めた。

この国で安楽死は必要ない。そう思わずにはいられなかった。

グローバル社会によって、今後の、日本特有の家族観や共同体意識は希薄になっていくだろうが、私はそこに寂しさを感じてしまう。

 

・・・日本特有の美しき共同体意識

何度も何度も言いますが、それによって苦しんでる人を我慢させるのは「悪」ではないでしょうか。

人のために生きる、人のために死ぬ。自分のために生きる、自分のために死ぬ。

どのような考え方があっても構いませんが、それは自分で自分の事を決めるべきであって、人に強要するべきものではありません。

先に「本当は望まない死のリスク」について話がありましたが、それによって議論の道を閉ざすことが、逆にどんなに苦しくても生きるという事を強要していることに気づいているのでしょうか。

その苦しみは他人が変わってあげることは出来ない、その人だけの人生なのに。余計はお世話すぎます。


私は海外での生活経験がないので、欧米の価値観を肌で感じたことはありません。

しかし、日本にいる私が感じる「日本の共同体意識」の正体は、自分の事を自分で決める勇気もない、そのくせ(だからこそなのか)人の意思は尊重できない、無責任文化であると感じています。

優しさのつもりが実は逆で、人を人として尊重できない、心を軽んじているのです。



さいごに

後半、文句が多くなってしまいました。申し訳ございません。

著者の意見には賛同できないところも多々ありましたが、この取材による情報の価値は非常に素晴らしく、日本社会にとっても有益なものであることは間違いありません。勉強させて頂きました。

安楽死を遂げるまで

安楽死を遂げるまで

 

 

余談ですが、個人の意思が尊重されないという意味では、以前私の父が家出し、首を切り自殺を図り(未遂に終わった)地方の病院でお世話になった時、医師とのやりとりでこんな事がありました。

医師「お父様は〇日退院の予定ですが、yuさんが迎えに来て下さいますか?」

「いえ、私は先に自宅に戻り父を迎え入れる準備をしますので、父には一人で退院してもらいます。」

医師「それは困ります」

「父は精神疾患があるわけではないですよね?」

医師「はい、精神疾患はありません」

「ですよね。正常な思考で、自らの死生観に則って死にたいと思い、自殺を図ったが死に切れなかったという事です。先ほど父とも話しましたが、今は私の家に引き取るという事で父も納得してくれていますし、自殺は一旦諦めたようです。子供じゃないので自分で新幹線に乗って帰るくらいは出来ますよ。」

医師「ですが・・・」

 

医師からすると、万が一、父が帰りにまた自殺未遂をしたり行方不明になったらどうしよう、その時に病院の責任を問われたらどうしよう、という事なのだと思います。

病院を出た瞬間から責任の所在は私にしておきたい、空白の時間を作りたくない。

あぁ、認知症でもないのに、うちの父も一人の人間として見られなくなっちゃんたんだなぁと思った次第です。
※とはいえ、自分で自分を傷つけ、病院の方々の手を煩わせたのですから、それはもう大変申し訳なく思っており、また感謝もしております。


長くなってしまいましたが今回のブログはこれで終わります。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

*1:本の中で紹介されている安楽死を遂げた女性の一人