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介護の現場から リーダーのためのブログ

食事介助を行わないという父との約束 【看取り・延命】【死生観の授業4】

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これまで、終末期や看取り介護等についての記事を書いてきました。

過去記事リンク ▼
自分がどのように死ぬか知ってる?【死生観の授業1】
実はすごく大事な『死ぬ場所』について【死生観の授業2】
「看取り介護」とは何なのか?【死生観の授業3】


さてここで、私から皆さんに一つ質問です。

問 :
「天寿を全うする」とは、具体的にはどのような状況を指すのでしょうか?


今までの記事にも書いたように、現代社会においては亡くなるタイミングすらも、ある程度は自分で考え選択できる時代です。

例えば老衰で食事が食べられなくなった時、そのまま亡くなるのか、胃ろうを造設して経管栄養で命を繋ぐのか…、高齢にしてガンが見つかった、手術するのかしないのか…など延命治療、延命介護と言われる様々な選択肢があるのです。

「天寿を全うする」と言っても、それは決して受け身なだけのものではなく、自ら考え準備しておく必要があります。いざという時に、自分も家族も後悔しないために、死に関する話題をタブーにせず、家族と率直に語り合う事が大切です。

今回は、「終末期の介護・医療」に関する私と父との約束についてお話します。

 
[目次]

 

 

1 . 父の死生観

父は現在60代後半、自分の事は自分で出来ますし、今すぐ介護どうこうと言う段階ではありません。

父は、自らの死生観を端的に表す際に、このような事を昔から語っていました。


「俺は『生きもの地球紀行(NHKテレビ、1992〜2001放送)』が大好きだ。動物は、自分でエサが獲れなくなって、食べられなくなったら、誰にも文句を言わず死んでいく。それこそが自然の姿じゃないか。これ程年老いてまで生にしがみつくのは人間だけだ。自分も動物のように死にたい。」

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これが父の死生観です。もう少し詳しく説明します。


①「食べ物を自分で食べられる」という事

冒頭に書いた「天寿を全うする」という事、父にとっては「食べ物を自分で食べられなくなった時」それが寿命の尽きる時である、という考えです。


「食べ物を自分で食べられない」という状況には2種類あります。

  1. 身体機能の問題
    食べるという動作は、「口に食べ物を運ぶ」「咀嚼(そしゃく)する」「飲み込む」という一連の動作から成り立っています。加齢に伴う身体の障害、脳の障害などで、これが出来なくなる事が考えられます。

  2. 食料調達手段の問題
    動物にとっての狩り、すなわち人間にとっての「お金を得る手段」の事です。父の場合「働けなくなったら」という事ですが、それだと余りに時期尚早なので、私は年金、家族の経済力、社会保険制度など、幅広い手段を想定しておきます。



② 「人生の役目を終えた」という事

父の死生観にはもう一つ、人生の役目を終えたら(自分のするべき事を精一杯果たしたら)あとは長生きするもんじゃない、という考えがあります。「俺はやるべき事を精一杯やってきて満足している。いつ死んでもいい。」とよく言っています。


この役目というのにも、2種類あります。

  1. 家族を持ち、子供を育てる事
    動物の摂理に則って考えるなら「子孫を残し一人前に育てる事」これを終えた時点で、自らの人生の役目は果たしたという事が出来ます。動物的にはいつ死んでもいい状況です。

  2. 自らの人生にチャレンジする事
    父にとって、これは「仕事」です。会社を興し、仕事を通じて自らの能力であったり、社会との関わりであったり、生きるという事に一生懸命に頑張ったという事です。

 

 

2 . 父との約束

① 医療に関する方針


  • 胃瘻、中心静脈栄養、人工呼吸器などの延命治療は行わない

  • 医療に頼る場合は「苦痛の緩和」を目的とする場合に限る

 

今のところこの2つ。


実際には、より細かい部分で選択を迫られる場面があるでしょう。

例えば父は「脳梗塞で倒れたら、治療はせずにそのまま死なせてほしい。」と言っていますが、脳梗塞の場合、治療のタイミングや重症度によって、予後の自立度にかなり大きな差が出ます。回復し自立度の高い生活を送っている人も知っていますから、果たして私は父の願いをそのまま受け入れられるかどうか、不安が残るところです。

それ以外の場合でも、施設での体験談ですが、自立度の高かったおばあさんが意識朦朧、動かないという状況になった事がありました。父の価値観で言えば「そのままほっといてくれ。」という状況なのですが、この方の場合、受診し点滴治療ですぐに回復しました。診断は『低カリウム血症』でした。

苦痛の緩和が目的か、延命が目的か。どのような治療をするのか、治療後の回復が見込めるか否か。このあたりが判断の基準になりそうです。


② 介護に関する方針


  • 可能な限り、家で介護を続ける

  • 食事の用意はするが、食事介助は行わない


どこまで出来るかは分かりませんが、基本的には自宅での介護を行うつもりです。そもそも延命を目的としていないため、一般的な人と比べると長期化はしないのでは?と思っています。父にとっての苦痛の緩和(専門的医療の必要性)、私含む家族の介護負担、これらを考慮した結果、施設入所が望ましいとなった場合には、それも選択肢には入れておきます。


次に食事について。これが重要かつ、あまり一般的ではない選択です。

食事介助をしないという方針は、一般的には「人為的に餓死させる事になるのではないか」という考えから、家族も介護士も拒絶反応が多いだろうと思います。しかし私と父はそのようには思っていません。


歳をとって、自分で食事が食べられないというのは具体的には以下の2種類を想定しています。

  1. 身体的な障害によって、自ら食事を食べるという動作が出来ない
  2. 認知症の進行により、食事を食べるという事が分からない


一般的には、上記の1.2.いずれの場合においても食事介助を行いますから、こうなったからすぐ亡くなるという事はありません。しかし父の死生観に則って考えると、この事態は即ち「寿命が尽きる時が来た」事を意味します。

もし父が認知症になり、用意した食事を自分で食べた場合、「本能的にまだ生きたがっている」と判断する事にします。※こうなった場合、介護は長期化する可能性が高いです。

手をつけなかった場合、無理強いは一切しません。介助もしません。空腹具合や体調によって食べ方にもムラがあるでしょうから、1日3食は必ず用意します。食べてもいいし、食べなくてもいいです。

食事介助はしないと言いましたが、1つだけ例外があります。お酒です。父はお酒が大好きです。もし、空腹を満たすためではなく、気持ちよくなりたいという趣向品として飲酒を望んだ場合には、量は少ないでしょうが、介助を行います。


ちなみに父は、こんな私の仕事柄を理解しているため、「徐々に衰弱していく事は苦しいのか、どのような精神状況なのか、身体的変化なのか、よくよく観察しておいて、後の自分の仕事に活かしなさい。」と言っています。


3 . さいごに

私自身は、父の死生観に賛成していますし、例えば安楽死が制度的に認められていれば父にも、自分にもそのような選択を望むでしょう。

ただし誤解して欲しくないのは、このような死生観が絶対唯一の解ではないという事です。今回ここに綴ったのはあくまで『私と父の』価値観であり、絶対的な正しさとは思っていません。人様がどのような選択(どのような延命手段)をしたとしても、私がそれを批判する事ではないと考えています。

私は人間らしさとは「選択出来ること」だと思っています。動物であれば本能のままに従います。しかし人間は理性であったり、美学であったり、感情や欲望であったり、一人一人が考え、違った選択を出来るような生き物です。

死に方についても、自らの信条に合わせて、その時の状況に合わせて、人それぞれ納得のいく選択が出来る事。そして、その選択肢が法整備(安楽死も含め)され、より幅が広くなる事が、多くの人の(私の)幸せに繋がるのではないかと考えています。